ココロのコンパス

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高校生の時、「謙虚であれ」と大きく黒板に書かれた

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忘れもしない、高3の夏。

僕は受験勉強のため英語の授業をとっていた。

10名程度の少人数クラスだ。

授業の内容はどれも知っていることでとてもレベルが低く

「そんなん知ってるよ、時間とお金の無駄だ」

と考えながら、わざと退屈そうにきいていた。

 

その時、先生がいきなりきれた。

 

彼は僕を名指しで批判しながら、

黒板に大きく、

 

「謙虚であれ!」

 

と書いたのだ。僕の態度が癪にさわったらしい。

 

ものすごく不快だった。

 

説教は30分にも及び、

僕は耐えかねて教室を飛び出した。

 

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******

 

 

就活の時にも僕は生意気で、

多くのオトナたちから、大嫌いな「謙虚」でいることの

重要性を説かれた。

 

そのせいで行きたい企業に落とされたこともあり、

どうしたら「謙虚」になれるのか、

というよりどうしたら「謙虚」に見えるのか、

ずっと考えていた。

グループワークで静かにしてみたり、

人の意見を聞くふりをしたり、

自分の個性を消すようになった。

 

でもみんなと何かするのが苦しくなるばかりで

「謙虚」が何か、それはわからないままだった。

 

 

しかし、大学4年の時に

「謙虚」ってどういうことか、

身を持って体感することがあった。

 

僕は病気をした。

突然に電車にのれなくなり、

友達とごはんも食べられなくなり、

いつも「すぐに息がとまって死んでしまう」感じがした。

 

本当に怖かったし、なにもできない自分が情けなさすぎてつらかった。

 

ただ、自分で何もできなかったからいろんな人に助けられた。

人を頼ることが極端に苦手だった僕は、

夜寝られないと友達に電話をかけることができるようになったし、

わざわざ地元の方まで友達に来てもらってごはんを食べたり、

それまでに仲が悪かった母親にも病院についきてもらうなど

色んなことをお願いした。

 

自分のできない部分、弱い部分が人の優しさで埋められていく感じがした。

とってもあったかかった。

感謝が溢れてきた。今までに体験したことのない感情だった。

 

ずっとひとりでがんばってきたと思っていた。

ひとりで多くのことができなければならないと、

それができる自分は優秀だと思っていた。

でもそうじゃなかったし、そうである必要もなかった。

僕が何もできないときもそばにいて支えてくれる人はちゃんといた。

 

 

「謙虚」とは、

自分の弱い部分や苦手な部分を受けいれて、

そしてその部分を誰かが埋めていてくれることを自覚し、

そのことに感謝している状態だと思う。

 

******

 

 

ふと考えることがある。

 

僕に「謙虚」を強要してきたオトナたちは

「謙虚」だっただろうか。

 

彼らは自分がないがしろにされたこと、

自分のプライドが傷ついたこと、

年下のやつに正しいことを言われたことを、

受け入れられなかっただけじゃないだろうか。

 

本当の「謙虚」は上述したように自分の弱さ、できない部分を

受け入れていること。

 

オトナたちはなかなかそれができなくて、

 

若者の個性や長所を

 

「謙虚であれ」

 

という言葉で抑え込んでいるんじゃないかな。